「名探偵ピカチュウ」を観た感想
名探偵ピカチュウを吹き替えと字幕の二回みたので感想を描こうかなと思い、書くものである。おそらく、だいぶ辛辣なことが書かれているように思うかもしれない。こういう感想は、自分のことを大分棚に上げて書かないと当たり障りのないことしかかけなくなるので、自分のことを棚に上げて、偉そうに書いている。
まず、読者として、映画をすでに観た人を想定しているので、ネタバレを”ネタバレする”という意識なく行う。
アブストラクト
100点満点でいうと、65点。ポケモンを実写化しているという点では成功しており、これだけで合格点の60があると考える。脚本はふわふわしてるので5点。*1
ストーリーをもうちょっとどうにかしていればもう名作になっていたという確かな感触があるだけに、惜しいな、勿体無いな、という気持ちがある。
良かった点
良かった点は箇条書きだけで済ませる。
1:ポケモンをうまく実写化したということ。
2:ピカチュウが可愛かったこと。
3:話の細かい部分をみると結構めちゃくちゃなのだが、ノリで見ればちゃんと映画として見れる部分。良く言えばエンタメ性があるという風にいえるのか?
悪かった点
1:いきあたりばったりなストーリー
この映画はほとんどいきあたりばったりで物語が進行していく。黒幕の行動を阻止することに映画的必然性がまったくない。いきあたりばったりで黒幕にたどり着いてしまって、いきあたりばったりでその行動を阻止する。そういう映画になっている。
こういう部分は、タイトルに探偵という単語が入っていることを利用して欲しかった。
探偵が主役の物語は、依頼人が依頼するという形式で物語を始めることができる。これは映画の描写の順番のことを言っているのではなく、物語のそもそもの始まりとしてという意味である。(探偵役が殺人事件に巻き込まれ依頼もなく物語が始まることはあるが)
探偵が主役ということは、「依頼人の依頼を解決する」という物語の必然性を与える設定を利用できるということのはずである。しかしながらこの映画はそれをなぜかやらない。
この映画は依頼人がいた方が物語としてまとまりが出てくるはずである。さらにその依頼人がミュウツーであったほうが好ましいように思われる。以下に理由をあげる。
まずこの映画が「名探偵ピカチュウ」であること、つまり探偵役がポケモンのピカチュウということである。次に「情報提供者はポケモン」というくだりがあること。ちなみにこの情報提供者はバリヤードです。探偵もポケモン、情報提供者もポケモン、だとしたら依頼人もポケモンにして、そこを物語の起点とした方が良いでしょう。この映画の中で「ポケモンとの調和」というテーマがまま出てきており、日常の風景にもポケモンを溶け込ませることに成功しているのだから、黒幕の考える意味での「調和(映画のストーリーとしてこれは否定されなければならない)」と対比させる意味でも依頼人はミュウツーとした方が良いと思われる。
こうした点を踏まえるとこの映画の実態は「名探偵ピカチュウ」というよりはむしろただ単に「ピカチュウ」と考えた方が良いのかもしれない。実際ピカチュウは可愛いわけだから。
2:ミュウツーの行動原理がよくわからないということ
映画のストーリーの起点は、ハリーとハリーのピカチュウが(襲われて)車の事故を起こし、そこをミュウツーに助けられるという場面である。ミュウツーがピカチュウにハリーの魂を移したことで人語を解するピカチュウが生まれるのだが、まず映画のなかでなんでハリーの魂をピカチュウに移すのかという部分が不明瞭である。ミュウツーは「助けてやる」と言っているので怪我の治療か何かなのか?とは当て推量はできるが、提示される情報がやっぱり少ない。そもそもこの時のミュウツーは自分も追われる身の筈のなので「助けてやる」って言うのは良いのだが、自分の心配もした方がいい。
それでもって同じ場面でミュウツーが「息子を連れてこい」とハリーたちに命令というかお願いというかそういう風に言うわけだが、「息子を連れてこい」って脈略がなさ過ぎないか?(まず息子の話するくらいハリーとミュウツー仲良くなっていたのかよ)
息子を連れてくる必然性が本当に全く感じられない。何がしたかったんだろうか?親子の仲を取り持ちたかったのだろうか。おそらくこの部分は脚本の都合、つまり喋るピカチュウとティムが出会うようにしないといけない都合で、ミュウツーの言動がおかしくなっている部分だと思われる。ティムとピカチュウの出会いにそういう映画的な必然性を持たせる必要をあまり感じなく、むしろ黒幕を倒すという目標に対して映画的必然性を持たせる意味で依頼人をミュウツーにした方が良いと感じる。
まだ言いたいことがある。ピカチュウにハリーの魂を移すと記憶がなくなるのだ。ミュウツーが「息子を連れてこい」って言ったことも忘れる。これは場当たり的な行動多すぎないか?
絶対に脚本の都合で振り回すなとは言わないが、これはやり過ぎである。行動に合理性や道理をまったく感じられない。
3:素人目で見てもわかる警察の捜査の杜撰さ
ハリーの死体が見つかってないのに、事故の様子が酷いから死んだということになっている。流石にそれはポケモンワールドとはいえ強引過ぎる。
4:ヨシダ警部補とは一体なんだったのか
正直ヨシダ警部補がよくわからんキャラ過ぎるのでブルーのバーターの役なのかと思った。
「名探偵ピカチュウ」はハリーが死んだという知らせから映画が始まって「もしかしたら生きてるかも」ということになって話が進む。こういう人探しの物語で、いなくなった人の仕事仲間や友人は物語のキーになったり、主人公に忠告を与えたり、ガッツリ関わる場合が大半なのでとってもオイシイ役柄のはずである。
ヨシダ警部補は仕事仲間が死んだのにサッパリしすぎだろう?
1回目に出てきたときは、悲しみを乗り越えようとしているとも解釈できるのでこれは別にいい。
2回目の登場でサッパリしすぎではないだろうか?ハリーのピカチュウが生きていたのだし、ハリーは結構生きてる感じがするし、死体が見つかっていない。多少なりとも希望を持つものだと思うのだが、もしかしてハリーと仲悪いのかな?としか解釈できない対応をティムにかますわけである。別に人の死についてサッパリしたキャラを出すなとは言わないが、こいつはこういう奴なんですということをわかりやすく「目配せ」して欲しい。分かりづらい。まぁただ単に手が回らなくってへんなキャラに見えてしまっていると言うのが正解だと思われる。この2回目に登場する場面も、「上から圧力が掛かっている」「この件に関わるな危ない」と言う描写にすれば、黒幕は権力者なんだなだとか、別にただ単にサッパリしてたわけじゃないんだな、とかもっといい感じになったと思われる。
ヨシダがティムをあれこれ世話しようとする描写があれば、ハリーは誰でも彼でも息子の話をしていたのだなって思えるので、ミュウツーがティムのことを知っていることについても説得力が出たのかもしれない。
あとハリーが戻ってきたあと、ヨシダとハリーの描写がない。
やっぱ仲悪いんじゃないのかなって思ってしまう。(手が回らなかっただけだと思う)
5:メタモンを殴る描写は避けた方が好ましいのではないか
メタモンを殴ってビルから落とす場面がある。まあどうせ鳥ポケモンにへんしんできるだろうとは思っていたけれど、もうちょっとポケモンに対するいたわりを持って欲しい。モンスターパニック映画の怪物みたいな扱い受けていたけれどそういう扱いでいいのか?この映画で、ポケモンというものをどう扱いたいのか分からなくなる。調べてみるとメタモンは笑わせるとへんしんが解けるみたいなので、そういう設定を拾って上手いことできたんじゃないかと思う。正直人間がポケモン殴る描写はだいぶキツイので、かなりダーティな雰囲気にしない限り許容できない。
6:その下ネタ、入れる必要あった?
この映画には1個だけ軽めの下ネタが出てくるのだが、この映画にそういうのいるのかな?
ティムが女慣れしてない表現は他にやりようがあるきがするのであんまり必要性を感じない。
この映画をどういう映画にしたいのかということがフワフワしている気がします。下ネタ入れるなって話ではなく、この映画の雰囲気にあっているのかどうかって話だよ。もうちょっとダーティな雰囲気だったらよかったかもしれない。本当に軽めの下ネタだから、これぐらいいいかって見逃してしまいそうになってしまうが、そういう微妙な点だから指摘したい。
まとめ
上で上げたようにストーリーの細部の粗がある映画である。しかしながらやはりポケモンを実写にちゃんと落とし込んで、ポケモンがいる社会や生活を真面目に描写している点は評価すべきである。
*1:この数字の代償は私の好みかどうかが分かる程度の指標でしかない